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時は1936年(昭和11年)。この年の6月、東京と神奈川の県境を流れる多摩川河川敷に記念すべき日本初の本格的な常設サーキット「多摩川スピードウェイ」がオープンした。1周1200mの変形オーバルというこのサーキットを舞台にして「全日本自動車競走大会」が開催されたが、このレースの攻防がまさに日産のモータースポーツの原点であった。
1936年当時の日産といえば1933年の創業から3年目。日産の新子安工場の片隅では就業後に意気盛んな有志が集まって市販車をベースにしたレーシングカーを製作していた。多摩川の第1回大会参戦を目標にし、着々とチューニングを進めていたのだ。こうしてレースに臨んだものの、しかしオオタという町工場製のマシンに敗れてしまう。当日レースを観戦していた鮎川義介社長(初代)はこの結果を見て激昂し、10月の第2回大会までに必勝マシンの製作を命じたという。
第1回大会から3ヶ月後の9ヶ月下旬には目のさめるような小型フォーミュラカーが完成した。750ccのDOHCエンジンにルーツ・タイプのブロワー(スーパーチャージャー)を装備した、ダットサンNL75が2台、生産車ベースのNL76が2台。日産初のワークスカーの誕生である。設計から製作までを僅か3ヶ月という短期間で手探りの中からDOHCエンジンを完成させ、僅かな資料でスーパーチャージャーを組み立てた技術力が当時の日産にあったことは大いに注目したい事実である。 |
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| こうしてマシンも無事完成し初のワークス態勢で臨んだ第2戦だが、最大のライバルと目してきたオオタは何と不参加。拍子抜けしてしまった日産陣営だったが、レースではブロワーの加給音を轟かせて快勝。その技術力の高さを詰め掛けた大勢の観衆に大いにアピールしたのだった。
当時としては稀な、高い戦闘力を持ったマシンを完成させた日産だったが、次第に戦時体制に突入していくという世相の中で、残念ながらこれらのマシンが観衆の前に姿を現すことは2度となかった。
次に日産がモータースポーツのシーンに登場するのはそれから22年後。広陵としたオーストラリアの台地を舞台としたラリー・シーンであった。 |
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